現役便利屋が語る「便利屋あれやこれや」シリーズ。便利屋がふと我に問う。「便利屋のいらない社会が本来ではないか?」もしかしたらそれは、みんな全員が便利屋になる世界なのかもしれない。。。

 便利屋不要論

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よくほかの便利屋のホームページなどに「便利屋とは100%ありがとうをもらえる仕事です」などと書いてある。

確かにそのとおりだ。

僕自身、いまだにパーフェクトでお客さんからありがとうをもらっている。
でも、そのありがとうを当たり前に喜んでいいものか......。

そもそも便利屋に依頼のある仕事のほとんどが「だれにでも出来る」仕事だ。
しかし、依頼者はその当たり前の事が出来ないから便利屋に頼む。

「足を骨折したから買い物が出来ない。1週間分の買出しをしてくれないか」
「組立家具を買ったけれど、どうしても自分ではムリ」
「タンスを移動したい」

どれもこれも、自分ひとりではムリだけど、だれかに頼めば済む仕事。
その、だれかとはずっと以前は隣近所や家族や親戚だったはず。

ところが、高齢化が進んだ、一人暮らしが増えた、近所付き合いがウザイなどで頼むべき人がいなくなったり、頼むことがわずらわしくなってしまっている今、そんな人はそんな時、便利屋が頭に浮かぶ。
そして、出来なかった用事を便利屋が簡単にこなす。

出来なかった人は「ありがとう」を便利屋に贈る。

その、ありがとうはずっと以前はなかったありがとうだ。
あるいは、ちゃんとコミュニケーションが取られている場所では、ありえないありがとうだ。

世の中が変わってしまって生まれた、亜種のありがとうだ。

だからと言って、便利屋のもらうありがとうは、ダメなありがとうとは言わない。
弱者を食い物にしているのが便利屋、そうも言わない。
でも、僕自身、便利屋でありながら、本来は便利屋のいらない社会が本当の社会だと思っている。

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