こころと暮らしの便利屋イメージ画像

寡黙なカウンセリング

こころに寄り添う寡黙なカウンセリング

こころの便利屋、寡黙なカウンセラー。

聴く

1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部をマグニチュード7.2の大地震が襲いました。この「阪神・淡路大震災」の際に行われた「こころのケア」というボランティア活動は、「心のケア」について記されたパンフレットを配りながら、被災者の話を聴くことを行ったといいます。ただ話を聴くという行為。この聴くということだけが、爛れたひとのこころの皮膚を、破れ目はいっぱいあっても、あるいはつぎはぎだらけであっても、かろうじて一枚つづりになった薄膜で覆うことができた・・・。

"聴く"ということは、相手を受けとめ、そして受け入れることだと思います。どうしようもない想い、行き場所のない想い、やるせない想い。いくらぶつけてみても解決できないことだけれど、それを受けとめてくれる人がまさにそこに存在すること。

聴くことの無限の力を、そこに感じるのです。

受容

"聴く"というのは、なにもしないでただ耳を傾けるという単純な行為ではありません。それは、語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事です。こうして人は、口を開きはじめます。得体の知れない不安の実態が何なのか、聞き手の胸を借りながら探し求めて。はっきりと表に出すことができれば、それで不安は解消できることが多いし、もしそれができないとしても解決の手掛かりは、はっきりつかめるものです。

拓く

聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場を拓くということでしょう。じっと聴くこと、そのことの力を感じます。かつて古代ギリシャの哲学者が"産婆術"と呼んだような力を、あるいは別の人物なら"介添え"とでも呼ぶであろう力を、です。古代ギリシャの哲学者 ソクラテス は、街角に出て対話を繰り返しました。それも、自分が語るのではなく、他者のことばに耳を傾けることで、ロゴス(ことば)を導き、真の知識に至りつく、その手助けをしたそうです。

話をすることで、人は自分の内面に注意を向け、その本質に気づくことができるのです。つまり人の話を聴くことは、まさにそれを導き出すことであり、それゆえ"産婆術"といわれるゆえんでもあるのです。語る,諭す,教える,知識を与えるという、他者に働きかける行為ではなく、論じる,主張する,意見をいうという自己表出の行為でもなく、"聴く"という、他者の言葉を受けとる行為、受けとめる行為の深い深い意味が、ここにあるのです。

このページの先頭へ